Vol.7 それだけ大変な思いをして直しました。私の原点です

5月、6月とケースの話をしましたが、皆さん、私の見方をどう思いますか。多分、色々な立場で違った意見があると思います。ぜひ皆さんの意見を聞かせてください。

私の場合、時計修理の世界で今年で50年を迎え、その内スイス時計の輸入会社に40年携わってきました。今は会社が無くなりましたが、日本デスコに入社しました。その時の取扱いブランドはオーデマピゲ、ジャガールクルト、ホイヤー、あまり日本では知られていなかったサーチナ、エルテナ、ドームという置時計もありました。何といっても小売店の技術者から、スイス時計の修理が出来る会社に仕事を得たことで今の私があると思っています。

日本デスコでの一番の思い出は、オーデマピゲのポケットウォッチでミニッツリピーター、スプリットクロノグラフ、それに永久カレンダー付の提時計、今考えると、この時計との出会いがその後の複雑時計の修理に進む原点だったと思います。何しろすごい時計で、この時計が修理に来たときのことは今でも思い出すくらいに強烈でした、こんな時計があるんだと思うくらいに。当然当時もスイスに送って修理するのが当たりえt前と思っていましたが、たまたまスイスから若い技術者が来ていました。今考えると本当にラッキーだと思います。彼が私にやってみようかといってきたのです。もちろん私もやろうと同意しました。その当時、まだオーデマピゲは手巻と自動巻しか修理をしていなくて複雑時計はやったことはありませんでしたが、多分そのとき25歳と一番やる気と向上心があったときと思います。ところがやるといってもスイスから来た技術者もここまでの複雑時計をやっていないという。もちろんマニュアルも無く、今考えるとよくやったなあと思います。でもそのことがあったことで、初めて修理する時計でもそのときのことを考えると何てことないと思えるのです。それだけ大変な思いをして直しました。私の原点です。

日本デスコではもうひとつ思い出があります。それはCMWの試験を受け合格したことです。町の小売店に勤めているときから目標にして勉強を始めていました。CMWの試験は小型の卓上旋盤で部品を作る作業があり、その他にも色々工具を自分で購入し自己流で覚えていきました。受験2回目で合格したのですが、1回目は試験の内容が分からずどのようなものか見るための下見のつもりで受験しました。そのような気持ちで受けたため不合格でした。そういうものか分かったので、1年後の合格を目指して勉強しました。1回目のとき旋盤などセットで約10キロはあったと思いますが、それを電車を乗り継ぎ試験会場まで抱えて持っていきました。これが思わぬトラブルになりました。机に工具をセットしていざ作業を始めようとしたら、ピンセットを持っても手バイトを持っても手が震えて作業ができないのです。あせりました、約1時間何もできませんでした。

原因は重たいものを持ったためなのですが、びっくりしました。そのことがあった後は今でも朝は箸以外重たいものは持たないことにしています(笑)。このことがあったので、2回目の受験のときは駅からタクシーを使い会場まで行きました。試験は一次と二次があり、一次は学科と図面に基づき巻芯と天芯作りでしたが、同じものでも色々な作り方があるのだなあと感心しました。自己流でやってきた自分にとっては勉強になりました。一次試験に合格して二次試験に臨みましたが、壊れた時計を渡されて直すのですが、私が受け取ったのは天芯が折れて天輪の中心穴が壊れてなおかつヒゲも壊れていたように思います。もちろんアンクルも壊れていました。この試験を3日間かけて挑みました。

次回は、そのときの奮闘をお話します。